■ バス停に送る人あり水仙花
( ばすていに おくるひとあり すいせんか )
バス停にひそと咲きたる水仙花
これは、もっぱら日本水仙の咲いている様子に焦点をあてて詠んだ句だが、掲句の方は、バス停の情景に焦点を当てて詠んだもの。中七の「送る人あり」は、そんなこともあったなと思い出しながら詠んだ。こういう想像の句は滅多に詠まないのだが、今回は試みに詠んでみた。水仙花は冬の季語。
ところで、こういう想像の句、或いは虚構(フィクション)の句はどこまで許されるのだろうか。
その一つの考え方に、「俳句は作るものではなく事実の感動を言葉で写生するものであるから、虚構の句は許容できない。」というものがある。その一方で、「実体験の切り売りだけでは感動は生まれない。俳句も他の芸術などと同様、虚構があってしかるべきだ。」といった意見があり、必ずしも一定しない。
そこで、以下では、いくつか虚構と思われる事例を見て検討してみたい。
事例1 行(く)春や鳥啼き魚の目は泪 (松尾芭蕉)
事例2 名月を とってくれろと 泣く子かな (小林一茶)
まず、事例1については「魚が泪(なみだ)を浮かべるわけないだろう」、事例2では、「えらい風流な子だね.」というツッコミが入りそうである。でも何か普通の表現よりも魅かれるものがある。
事例3 水打てば夏蝶そこに生れけり (高浜虚子)
事例4 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (水原秋桜子)
事例4 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (水原秋桜子)
ある情景の句を作ると、そこに実際のものとは別の何かを置きたい衝動に駆られることがあるが、事例3では水を撒く景に夏蝶を誕生させた。事例4は、桑畑に帰省する人物を歩かせた。因みに、秋桜子は東京生まれの東大卒で、帰省の経験は無い。
事例5 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 (与謝蕪村)
この事例は、野分(台風)に遭遇した場面で、保元・平治の乱の頃にタイムスリップし、鳥羽殿に向けて走る馬を想像して詠んだ句だと思われる。
このように見てみると、名だたる俳人も虚構の句を詠んでいることが分かる。しかも、探せば他にも沢山出てくる。
従って、一概に虚構は全てだめだとは言えず、その人の俳句に対する考え方や作風、あるいは好みによって虚構の許容度も自ずと違ってくるのではないかと思う。
かくいう自分は、これまで、自分が体験したこと、見たことをできるだけ偽りなく表現することに努めてきた。それは、自然に触れることなどにより得られる素の感動を重視し、それをあまり修飾・加工したくなかったからである。
それは自分なりの作句法として間違いではなかったと思うが、作句の幅を少し広げる意味で、上記の事例も踏まえ、多少とも虚構を入れた表現方法も今後試みていきたいと思う。その上で再度、俳句における事実性と虚構性の関係を考えてみたい。
*本文が長くなったので、関連句、参考句などの掲載は割愛する。