■ たちばなや御所望拝の彦九郎
( たちばなや ごしょぼうはいの ひこくろう )
右
台座の説明書きを見ると「高山彦九郎皇居望拝之像」という表題が記され、高山彦九郎という人物が、京都に上洛した際に京都御所に向かって拝礼している姿を写したと記されていた。(もともと「土下座」は土の上に座り伏して敬仰の礼をあらわすもの。)
【高山彦九郎像】
高山彦九郎(1747年~1793年)は上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)出身。江戸時代後期、諸国を行脚して尊王論を説いた「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。
幕府の追及を受け、福岡・久留米で自刃したが、「尊王運動の先駆者」として幕末の志士たちに強い影響を与えた。
銅像は、1928(昭和3)年、有志らの寄付により建てられた。高さ約2メートルの大銅像で京都御所に向かって拝礼している。
彼がどんな人物だったのか、その詳細については省略するが、今から250年程前にこのような人物が、こんな姿でこの近辺を闊歩していたと思うと何とも不思議に思えてくる。
尚、「橘」「橘の実」は秋の季語なので、秋の句として残しておきたい。ただ、秋期はまだ緑色で、黄色く色づくのは今頃。むしろ冬の季語に相応しいと思うのだが・・・。「花橘」「橘の花」は夏の季語。
由緒ある橘の実の小さかり
由緒に関して言えば、橘は平安神宮本殿や京都御所紫宸殿の前に、「左近の桜」に対して「右近の橘」とという名称で植えられている。
なぜ、そのように愛でられているのか調べてみると、橘が常緑であることが「永遠」に通じ縁起が良いこと、果実は古くから「常世国(とこよのくに)」の不老長寿の妙薬として珍重されたことなどによるそうだ。
果実は、直径3cmほどで紀州蜜柑や温州蜜柑に似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされることが多い。
【橘、橘の実の参考句】
橘やきのふの人のはや昔 (横井也有)
橘やむかしやかたの弓矢取り (与謝蕪村)
橘や風ふるくさき長谷の里 (正岡子規)
橘や通るは近衛大納言 (夏目漱石)
青き葉の添ふ橘の実の割かれ (日野草城)