■ 空蝉と木賊 三句
○ 空蝉の木賊をしかと掴みおり
( うつせみの とくさをしかと つかみおり )
○ 空蝉のしがみつきたる木賊かな
○ 空蝉のしがみつきたる木賊かな
( うつせみの しがみつきたる とくさかな )
○ 空蝉の木賊の先の静寂かな
○ 空蝉の木賊の先の静寂かな
( うつせみの とくさのさきの しじまかな )
俳句をどう詠むか。その方法はいろいろあると思うが、自分の場合はもっぱらある情景を実際に見て感じたことを表現するようにしている。与えられた題に関して、想像で詠むことはめったにしない。
こういう手法を「写生」というようだが、その意義については、正岡子規や高浜虚子をはじめとして多くの俳人が論じている。浅学非才のため、それらを解説することはできないが、その手法には以下の利点があると思う。
① 実際に見たものを表現するので取り組み
やすい
② 対象物は変化しないので推敲において
② 対象物は変化しないので推敲において
ぶれにくい
③ 読者も情景がイメージしやすく共感が得
③ 読者も情景がイメージしやすく共感が得
やすい
ただし、実際に見たものを説明するだけでは句にはならず、情景を見て詩的な何かを感じることが、句作以前の問題として大切であると考える。
前書きが長くなったが、本日の掲句はそのことを念頭に詠んだ句。三句とも掲載した写真の情景を見て詠んだ句だが、それぞれ視点(観点)が微妙に違う。
まず第一句は、空蝉(蝉の抜け殻)が木賊(とくさ)の茎の天辺にまで行き、それをしっかり掴んでいる様子を詠んだ。視点は空蝉にある。
第二句は、少し引いて見た情景で、視点は空蝉と木賊。そして第三句は、更に引いて見た情景で、視点は空蝉と木賊とそれを取り巻く静寂(しじま)においた。
実際に何をどう感じたかを説明することは敢えてしないが、同じ情景を見ても感じること、あるいは感じ方が微妙に違ってくることは間違いないところである。
尚、「空蝉」は夏の季語だが、「木賊」は秋の季語なので、いずれの句も「季違い」の「季重なり」の句となる。こういう句は、極力避けるべきだとされているが、実景がそうなので敢えて詠んでみた。
因みに、「空蝉」に関しては、過去に以下の句を詠んでる。
空蝉は過去の私のコスチューム
暗くじめじめした地中から地上に出て、窮屈な殻を脱ぎ捨て、明るく広い空間に飛び出した蝉の思いを詠んだもの。
木賊は、トクサ科トクサ属の常緑性シダ植物。山中の湿地に自生。観賞用に庭園などに植える。茎の表皮が固く、ざらざらとしていて、細工物を研ぐのに使われたことから「とぐくさ」→「とくさ」と言われるようなった。それ故「砥草」とも書く。
参考句は、「空蝉」を詠んだものをいくつか掲載した。
【空蝉の参考句】
空蝉のいづれも力抜かずゐる (阿部みどり女)
空蝉のすがりてかろき青木賊 (西島麦南)
空蝉の一太刀浴びせし背中かな (野見山朱鳥)
森閑とこの空蝉の蝉いづこ (福永耕二)
空蝉に草の匂ひのありにけり (仙田洋子)