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Channel: 写真・俳句ブログ:犬の散歩道
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木漏れ日の沼地に独り座禅草

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■ 木漏れ日の沼地に独り座禅草  
          ( こもれびの ぬまちにひとり ざぜんそう )

イメージ 1先日、京都の植物園で座禅草が開花しているのを見た。この植物は、写真の通り、暗褐色の仏炎苞(ぶつえんほう)の中に納まったもの(花)が、光背(こうはい)の前で座禅をしている僧のように見えることからこの名がついたと言われている。

*仏炎苞(ぶつえんほう):植物の苞の内、花を包む大型のもの。
*光背(こうはい): 後光、御光ともいい、仏像の放つ光明を象徴するもの。

本日の掲句は、その座禅草が、木漏れ日が射す沼地に一株だけ咲いているのを見つけて詠んだ句である。座禅草は春の季語。

ところで、座禅というとじっと目をつむって座っているイメージがあるが、一体何のためにするのだろう。曖昧な知識しかなかったので少し調べてみた。

●坐禅(ざぜん)とは、仏教で姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修行法。 尚、「座禅」という表記は常用漢字に「坐」の字がないため便宜上使われており、正しくは「坐禅」。「坐」は坐(すわ)る行為を表し、「座」は坐る場所を表す。
●坐禅はMeditation(瞑想)と翻訳される場合があるが、眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念である。尚、『ヨーガ・スートラ』に説かれる古典的な意味でのヨーガ(瑜伽)は、坐禅と同じもの。
●坐禅の持つ意味や目的の解釈は、禅宗でも思想により流儀が別れる。公案(課題、問題)により見性しようとする臨済宗は、疑問を抱きつつ坐禅することにより悟りに至る看話禅の立場を採る。
●これに対し、曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場に拠る。日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えた。
●最近では、宗教・宗派とは無関係に精神鍛錬として認識され、寺などで僧が監視する中で坐禅を行う修行体験を、一般の人々向けに行っている。
 
以上、Wikipediaを参考に、ポイントと思われることを書きだして見た。結論的に言えば、そう簡単に説明できるものではなさそうだ。

イメージ 2話は戻るが、座禅草に関しては昨年以下の句を詠んだ。

       泥沼に沈思黙考座禅草

やはり、座禅草の咲いている場所と花の形から、ひたすら「座禅」をする姿をイメージして詠んだ。

座禅草は、サトイモ科ザゼンソウ属の多年草。開花時期は3月から4月。色は全然違うが、花の形は水芭蕉(みずばしょう)に似る。花のあと、脇にある葉っぱがどんどん伸びてくる。花を達磨大師の座禅する姿に見立てて、達磨草(だるまそう)とも呼ぶ。また、悪臭があることから、英名では「スカンク・キャベツ」というそうだ。

イメージ 3







座禅草を詠んだ句はそれほどないが、ネットで見つけたいくつかの句を以下に掲載する。

      【座禅草の参考句】
       座禅草跼み見すれば世はしづか    (藤田湘子)  *跼む(かがむ)
       座禅草合掌しつつ開きけり       (田村恵子)
       波音に背ナ向けてゐる座禅草     (小池槇女)
       暮れがての風の音聞く座禅草     (伊藤京子)
       踏めば水にじむ湿原座禅草       (大野雑草子)

イメージ 4

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